【OSHO】

第一の幻想は、あなた方の誰もが、
自分は「愛」を知っていると思っていることだ。
この幻想は途方もなく有害だ。
なぜならあなたは、すでに知っていると思っているからには、
それに到達するための努力や、それを目覚めさせるための努力を決してしないだろうからだ。

あなたは
気づいてはいないだろうが、
「愛」を知る者は、
神性を知る能力を同時に
得るということを。

つまり、
あなたが愛だと
思っていることは、
おそらく愛ではないと
いうことだ。
あなたは何か別なものを
愛と呼んできた。
そしてこうした幻想を
抱いている限り、
どうして愛を探求し、
探し求めることができるだろうか? 

あなたが誰かに
「愛している」と言う時は、
実は愛を与えているのではなく、
愛を求めているのだ。
誰もが愛を求めている。

しかし自ら愛を求めている者が、
どうして
愛を与えることができるだろうか? 
あなた方はみな、
お互いに愛を求め合っている。
あなたの本質は、
「愛してほしい」と
ねだっている乞食だ。

妻は夫に愛をねだり、
夫は妻に愛をねだっている。
母親は息子、娘に愛をねだり、
息子や娘もまた愛をねだる。
友人は友人に愛を求めている。

あなた方はみな、
お互いに愛をねだっている。
自分が愛を求めている友人もまた、
愛を求めていることに気づかない。
あなた方はまるで空(から)の器を
持って向かい合い、
施しを求める2人の
乞食のようだ。

愛を求めている限り、
愛を与えることはできない。

なぜなら、求めているからこそ、
自らの内側に
愛の源泉がないという印に
他ならないからだ。
そうでなければどうして、
外側に愛を求める必要が
あるだろうか? 

外に向けて愛を求める欲求を
超えた者だけが、
愛を与えることができる。
愛とは分かち合うものであって、
ねだるものではない。
愛は与えることしか知らず、
求めることを知らない。
乞い求められた愛は、
愛ではあり得ない。

そして覚えておきなさい。
愛を求める人は、 決してこの世で
愛を手に入れることはできないことを。

愛を求める人は、
決して愛を得ることがない。
愛は、
愛に対する欲望が
消え去った家にしか訪れない。

愛は愛を求めるのをやめた者の
家に降り注ぎ始め、
ねだるハートへは
流れていかない。
なぜなら、
ねだるハートには、
愛の訪れを可能にする一種の
受容性がない。
しかし分かち合うハート、
与えるハートには
一種の受容性がある。
これまでに、愛があなたの扉を
ノックしたことがあっただろうか?
いや、なかっただろう。
なぜならあなたはこれまで、
愛を与えることが
できなかったはずだから。
そしてまた何であれ、
あなたが与えたものは
自分に戻って来るということも
覚えておきなさい。

生命の永遠の法則の一つは、
何であれ
自分が与えたものは自分に
戻って来るということだ。
全世界とは、
反響する木霊(こだま)に
他ならない。

憎しみを与えれば、
憎しみが
返ってくるし、
怒りを与えれば、
怒りが返ってくる。
人を罵倒すれば、
別の人を介して
罵倒が返ってくる。
棘を差し出せば、
忘れた頃に棘が戻ってくる。

与えたものはすべて間違いなく、
さまざまな形で
自分に戻り、
自分に返ってくる。
そして愛を
分かち合えば、
愛も
またさまざまな形で
自分に返ってくるのだ。
さまざまな形で愛が
戻ってきていないのなら、
自分が
愛を
与えてはこなかったからだと
理解しなさい。